商工振興会紹介

商工会概要

 ■所在地   山口県下関市清末本町8-2
 ■会員数    34社  ※2014年12月現在
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商工会のご利用案内

 商工会館は一般方も、お気軽にご利用頂けます。ちょっとした会合やイベントなどの会場等にご利用ください。

【 料金体制】

■1日 / 1,500円 ※午後7時まで     冷暖房使用は、+500円

■月極     ・毎週一回 / 3,000円    ・毎週二回 / 6,000円

 【お問合せ先】

TEL:090-1686-2737 (担当:毛利館長)     メールでのお問合せはこちらから

 

商工会の歴史

清末商工会館清末の商売人の初めは、遠く清末毛利の創藩時代にさかのぼると伝えられている。元禄5年(1692年)、清末が一万石の城下町となり、藩の御用商人が軒を並べるようになった。
この頃が清末商人の原点と言われ、ちまたでは一晩中灯の消えることがなかったと伝えられている。
明治20年頃までは、山陽道の拠点の街として大いに栄えたものであるが、以後は衰退の一途をたどることとなった。
その要因はいろいろ考えられるが、私達の先輩に、あまりにも保守的感覚が強かったことも一因であろう。例えば、山陽鉄道(現山陽本線)の建設の時、駅舎建設の要請があったにもかかわらず、これを拒否して、自らの手で街の発展の要素を取り消してしまったことなど、時代の波に乗ることができなかったのである。
大正10年、清末に電灯が灯り、小月間に定期乗合い自動車が走るなど、一挙に文明開化の波が訪れることとなると、清末の住民はさぞやびっくりしたことであろう。
このように時代背景の中、大正12年、古谷孫右衛門の手によって、清末商業組合が設立されたのである。
初代会長には、古谷自身が就任した。その当時、古谷は醤油屋・風呂屋・精米所を経営し、大地主でもあった。
彼はまた、清末農業協同組合の前身である清末信用利用組合を設立、清末に銀行の支店をも誘致している。昭和8年には、清末村の第13代村長となった。
その当時商業組合の全員数は約50人くらいであった。
昭和9年には、国道2号線が開通し、ハイウェイ時代の幕開けとなった。
昭和13年には、鞍馬に家畜市場が開設されたけれども、街の活性化までにはつながらなかった。
翌昭和14年、清末村は下関市と合併した。
その頃、清末には、大浜屋という菓子の製造や砂糖などの商売をする店があった。岩永という米屋、筑前屋・一心桜など大きな料理屋や、豊浦郡(合併前は豊浦郡清末村であった)一を誇る竹山という呉服屋があり、遊郭も二軒あった。
昭和17年、清末東町は、死者50名を超す台風水害に見舞われた。この時に当たって、商業組合として援助活動に従事している。
大東亜戦争(第二次大戦)が勃発すると、その影響でだんだん物資が乏しくなり、ついに昭和17年国家総動員法が発布されて、あらゆる物資は統制下に置かれることとなった。生活必需品統制組合が設立されて、米を始め、砂糖・醤油・油類・塩・衣類・紙に至るまで、あらゆる物が切符制による配給制となり、事実上商売はできなくなってしまった。清末では、五毛に山口県和傘統制組合の事務所が設けられ、和傘の材料となる和紙・竹・油などを県下一円に配給していた。
清末商業組合も、国策にそって、その名も商業報国隊と改められ、会の主旨である共存共栄・相互扶助の線から遠く離れていった。
ちなみに、その頃の労賃は、日雇い日給で、物に換算すると白米2升くらい、2日働いても清酒1升が買えなかった。
昭和20年8月、苦しかった戦争も終わり、平常に戻ったかに見えたが、物資不足で、なかなか商売はできなかった。
清末商業組合も、いつの間にか消えてなくなっていたが、昭和22・23年頃になると、ようやく商売で生活ができるようになってきた。
しかし、昔の清末の業態は復活しなかった。昭和も20年代後半になると、時代を反映して、国道2号線沿いに自動車の販売会社が並ぶようになり、ガソリンスタンドも開店した。その反面、かつての住還道の街筋は次第にさびれていき、清末はついに小月の商圏内に入ってしまうこととなった。
小月には、サンモール商店街が計画され、下関にはシーモールが開店した。商店街も個々の戦いではなく、組織的な商業活動を要求されるようになってきた。
ようやく清末でも、田中義人を中心に、商工会の構想が練られる機運が生まれてきた。これが清末商工振興会の起源である。

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